禁煙セラピーを読んでタバコをやめた話(2001学級通信)

 「タバコもテニスもやめなさい。」と校医の中村先生は言った。今や心の支えともなっているテニスと10年にもなる習慣であるタバコをいっしょにやめろとは、この人は本当に医者なのだろうか。しかしながら、思い当たることがある。蒸し暑い日や寝不足の日などは決まって発作に見舞われていたからである。サーブやスマッシュなどの瞬間的な力を使うショットの直後、突然脈拍が5倍ぐらいになる。100メートルを全力疾走した直後でもこんなにドキドキすることはない。

「もし、この発作が10分も続いたら・・」

 発作が起きたら医者から指示されているようにする必要がある。つまり、街角にたむろする若者のようにしゃがみ、地面をじっと見るのだ。しばらくすると脈拍は元に戻る。だんだんゆっくりになるのではなく、まるでスイッチを切ったかのように瞬時に直るのである。そしてプレーを再開することができる。

 WPW症候群というやつで、生まれつきのもので治ることはあまりないらしい。日常生活に支障はないが、激しいあるいはしつこいスポーツをするこを私は高校生の時以来禁じられている。

 テニスは30才の時に始めた。賞状1枚もらえる腕前ではないが、それでもテニスから得るものは限りなく大きい。しかし、テニスコートで心筋梗塞にでもなれば、仲間に多大な迷惑をかけてしまう。やはりここはタバコをやめるしかないだろう。

 実は禁煙には今まで何度かチャレンジしている。でも最高で一月。かえって数回の失敗で「そんなもんやめれるか!!」と開き直っていた。しかし子どもができるということもあり、やはりやめ時であることには間違いなかった。しかし自信はない。どうやってやめるか。タバコを吸いながら私は考えていた。

「この1本を最後にできるか。」

「できない。」

「ではどれを最後にするか。」

「10本目?20本目?100本目?」

「とりあえずこの1本は吸う。その後で考えよう。」

 困ったとき、私は必ず本屋に行く。学校から家までの道中には本屋がないので、ずいぶん遠回りをしていつもの本屋に行った。期待に胸躍らせて、禁煙に関する本はあるかと訪ねたところ、店員はないといった。取り寄せも書名が確定していないのでできないらしい。

 「禁煙に関する本がない?こんなにいっぱい本があるのに?」と思いながら下の棚を見ると、黄色い本がガバッと平積みされている。そのタイトルは「禁煙セラピー」しかも「読むだけで絶対やめられる」というサブタイトル付きだ。私は彼がレジに入るのを見計らって、その本の支払いをした。

 著者のアレン・カーは日に100本のヘビースモーカーであったが、悟りを開いたある日、何の苦しみもなくきっぱりタバコをやめたというのである。その悟りというのは精神力でタバコを断つのではなく、タバコがいかに不要なものであるか理解し、精神的な依存をなくするというものである。自信に満ちて力強い文章だ。こんなふうに。

 「従来の禁煙法は、始めたときにはエベレストにでも登り始めた気分、2,3週間後には無性にタバコが恋しく、吸っている人がうらやましくなる、そのようなものでした。しかし本書はあなたが悪い病気を克服したときのように意気揚々と、今すぐ禁煙を始めたくなることを目的としています。本書の禁煙法でタバコをやめたあとはタバコのことを考えるたびに、どうしてあんなものを吸っていたのだろうと思うようになります。そしてタバコを吸っている人がうらやましいどころかかわいそうに見えてくるでしょう。ただし、現在タバコを吸っている人は本書を読み終えるまでタバコをやめないでください。矛盾していると思われるかもしれませんが、いいのです。」

 理屈っぽい私にこの本は実にぴったりで、217ページ100%完璧に納得し、禁煙で失うものが何もないということをたった900円で理解することができた。しかし、やはりタバコをスパスパと吸っていたのである。理解できたからといって吸いたい気持ちがなくなるわけではない。

 タバコのうまさというものは、唐揚げがうまいというのとまた違う。説明は難しいが、吸っていないときは数学の問題を解いている時のような感じで、吸ったときはそれが解けたときのような感じとでも言おうか。1分間息を止めてから空気を吸ったときの感じといってもいいだろう。まあそれはともかく、やめなくてはならないと思うと、よけいにうまくなるものなのである。しかし、信仰は行動を起こす力を作り、ついにその日が来た。その日私は第50章を何度も読んだ。

「準備ができたと思う人は最期の1本を吸いましょう。ただし、一人で吸うこと。無意識に吸わないこと。一服一服に集中すること。味と臭いに集中すること。発ガン性の煙が肺に入っていく感じに集中すること。毒素が血管に詰まる感じに集中すること。ニコチンが体内にいきわたる感じに集中すること。その1本を消すときに、もう二度とこんな感覚を味わわなくてすむことのすばらしさを感じること。奴隷生活から解放される喜びを味わうこと。それはまるで真っ暗闇から日光のさんさんと降り注ぐ世界に抜け出したようではありませんか。」

 私はついに最後の1本に火をつけた。そして本に書いてあるとおり、その1本に全神経を集中した。

 真鍮でできた、イタリア製の灰皿がずいぶん気に入っていた。0を一つ見落としていることをレジで知り、動揺しつつもやっぱり買った灰皿だった。使い込んだ管楽器のような色のその灰皿に最後の火が消えていった。最後の1本は実においしくなかった。

 タバコを吸いたくなる瞬間というものがある。食事のあと、授業のあと、運転中、パソコンの前に座ったとき、テニスのあと、釣りのとき・・・。不愉快なことがあったときも、何かを終えたあとも、そして、何もしないときも。つまり、かなり頻繁にあるわけだ。しかし、そのハードルを私は次々とクリアし、1週間、2週間が過ぎていった。自分でも信じられないくらい順調だった。今回は明らかに違う。3週間が過ぎれば、タバコのことを考えもしなくなるに違いない。私は勝利を予感していた。それはまるで、強烈に加速した飛行機が滑走路を離れる時のようだった。

 しかし、節目と思っていた3週間が過ぎても、期待していた変化が起こらない。テニスに関してもタバコをやめた効果が現れると思っていたのが見当違いだった。実は急激に体重が増え、動きがよくなるどころか、膝が痛くなる始末だった。900円の信仰が揺らぎ始めると、悪魔の猛攻がはじまった。一日中タバコのことを考えては自分を説得するという作業を繰り返す毎日で、私はみるみる消耗していった。

 とうとう一ヶ月になろうとしていたが、熟睡できた日は1日もなく、心労はピークに達し、私は疲れ切っていた。些細なことでめちゃくちゃに腹が立ち、キレてしまう。もしかするとこれがノイローゼの症状なのかも知れない。

「もう限界だ。」

体調や人格が崩壊してしまっては、タバコをやめる意味がない。

「もういい。これで十分だ。」

 私は家路の途中で車を止めた。学生時代よく吸っていた赤いラベルの外国タバコを一箱買い、ニュータウンのはずれの車通りの少ないところに移動した。黄色いイチョウの葉がちりばめられた歩道に私は足を下ろした。もう、迷いはない。

 一月ぶりのタバコは理屈に反して最高にうまかった。お腹や胸のあたりの焼けたような感覚がなくなり、長年の病気が一気に治ったように感じた。しかし癒しの恍惚感が消えると、深い絶望感だけがそこに残っていた。今までしてきたことが水の泡となって何もかも失われていた。タバコすらやめられない自分にできることなど何一つないに違いない。よき父になることなどとうていできないだろう。それは忘れることのできない敗北の味だった。

 この夜は本当によく眠れた。こんなによく寝たのは子どもの時以来かと思ったほどだった。まぶしいほどの秋晴れの朝、私はもう一度やってみることに決めた。いつものように出勤し、1本だけ抜けた赤い箱を内藤先生にあげると、彼はたいそう喜び、「これは久しぶりですな。」といいつつうまそうに吸った。

 結局それ以来私はタバコを吸っていない。しかし考えてみると、あれが最後のタバコになるのかどうか死ぬまでわからない。 

投稿者: roundstone1966

高校の教員をしています。数学の授業の評判は今ひとつなのですが、学級通信だけは面白いと褒めてもらっています。大学受験に向かう生徒を励ます目的で書いたものが大半ですが、皆さんに読んでいただけたら嬉しいです。

禁煙セラピーを読んでタバコをやめた話(2001学級通信)」に2件のコメントがあります

  1. よく頑張りましたね。最後のタバコの表現が切実でいいです。
    私もかつてもくもくしていたのでとてもよくわかります。
    今はアルコールも止めました。
    そうそう、最近始めたTik Tokも先週やめました。面白すぎて依存症になりそうで、こわくなってやめました。タバコと同じです、
    (=^・^=)

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    1. コメントありがとうございます。断酒できたんですね、凄い。私は断酒5ヵ月で鬱になってまして、ブログ更新する元気ありません。アドバイスお願いします。

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