私が通勤に使う電車は座席がバスのように前を向いています。ただし、端の席だけは向きを変えられないので4人が向い合って座るようになっています。
対面席はいつも空いているので、その日も私はそれに座っていました。
私の前にはいかにも高級なスーツを着たビジネスマンが資料を開いています。これから大事な商談でもあるのか、緊張した面持ちです。
この夏は換気のために窓を開けて走行していたからでしょう。突然彼の横の窓に緑色のカナブン(関西ではブンブン)が飛んできて止まりました。彼はチラッと一瞬それを見ましたがすぐにまた資料に視線を戻しました。
もうすぐ駅に着きます。到着したら私がそのブンブンを外に逃してやろうと思いました。
蜘蛛を助けると蜘蛛の糸が降りて来ますし、亀を助けると竜宮城に連れて行ってもらえます。ブンブンを助けたら、ブンブンの国に連れて行ってもらえるに違いありません。私は心躍らせながら電車が駅に着くのを待ちました。
扉が開き、我々は立ち上がりました。と同時にそのビジネスマンがブンブンをそっと掴み、車外に逃しました。
彼にも、ブンブンやクワガタで遊んだ子供時代があったに違いありません。資料を見ながらも、それを思い出していたのかも知れません。私は何かほっとしました。
その後彼と会ったことはありません。もしかすると、枕元に現れたブンブンに教えてもらったとうもろこしだか小豆だかを買って財を築き、会社をやめたのかもしれません。
先日、帰りの電車で私の横の窓に白い蛾が止まったので窓の外に逃してやりました。その日以来、枕元にノートとペンを置いて寝ています。